福岡県議団バナー
トップページにもどる

福島調査のまとめ

投稿: 2014年06月09日 | カテゴリ: 福島レポート

3回に分けてお届けした福島レポートですが、同行したスタッフが撮影したビデオがYouTubeにアップされています。あわせてご覧ください。

福島第一原発から50キロも離れた飯舘村は、地震・津波の被害はなく、豊かな田園風景が広がる地域です。佐藤八郎村議が迎えてくださり、村内と仮設住宅を案内していただきました。

当初、放射能汚染されたなどとは、まったく思っていなかった村民は、1610名もの津波被災者を受け入れて、もてなしていました。ところが、その後、飯舘村が高濃度汚染地域とわかり、役所が44マイクロシーベルトで自衛隊が除染するなど、村民に不安が襲いました。ところが、長崎から来た山下教授が「避難の必要はない」と各地で講演を行い、住民は避難せずにいたところ、1か月もたって、全村避難になったということで、不正確な情報に振り回された経緯をお聞きしました。そのため、避難先が見つからず、遠く会津にまでもいかなければならないなど、ちりじりになって避難生活を送り、その後、近くの仮設住宅にさらに引っ越してきたということです。

村民の個人所得は、県内最低であるが、一町程度の田畑をもち、牛を飼うなど、生活は安定しており、3世代、4世代が暮らしていた。牛を避難させられず、牛に餌をやるため、毎日汚染地域に通った人もいる。仮設住宅は30か所に建てられ、全部回ると230キロにも及ぶ。住民がどこにいるのか、個人情報保護の関係でわからない。1700世帯だった村が、家族ばらばらに暮らすので3400世帯になっている。
飯館村の様子
飯館村の様子

佐藤議員の話は、ひとつひとつがつらいものでした。「淡々と話さなければ、話せなくなる」といわれた言葉に、その悲しみと苦しみの深さがにじみ出ていました。佐藤議員の自宅にいき、側溝にガイガーカウンターを入れたところ、30マイクロシーベルトを超え、針は振り切ってしまいました。3回の除染を行っている役所の空間線量は、0.5マイクロシーベルトでしたが、ホットスポットはいたるところにあると感じました。銀杏や梅の木が植えられていました。梅の実についた苔をとって測定したところ、37万ベクレルもあったということです。

飯館村の様子
飯館村の様子

仮設住宅に案内していただきました。北九州から送った野菜を袋詰めして、住宅をまわり、お話を伺いました。「野菜を買って生活するなんて思っていなかったの。助かります。ありがとう。」と頭を下げられる高齢者。「家に帰りたいの。ここ(仮設)は狭いのよ。何も置けない。私は帰りたいけど、子どもたちは帰らないっていうし、近所の人も帰らないっていうし、一人では帰っても生活できないし、やっぱし、この牢屋みたいなところで死ぬしかないのかなって。」といって涙ぐまれました。かける言葉が見つかりませんでした。すでに、畑を借りて野菜づくりを始めている人もいますが、毎日使う野菜、特に汚染されていない地域の野菜は嬉しいといっていただきました。

飯館村の様子

学校も仮設です。3校合同のプレハブ校舎に、14台のスクールバスで子どもたちは通ってくるそうです。プレハブの体育館もあって1億7千万円かかったということです。

飯館村の様子
飯館村の様子

地域も自然もこわされた、放射能被害の現実をまざまざとみせつけられました。家があるのに、帰れない。その口惜しさはいかばかりでしょう。原子力規制庁は、今も、5キロ圏、30キロ圏と距離で区切って避難計画をつくろうとしていますが、飯舘の現実は、距離で区切れるものではないことをはっきり示しています。風向きや地形によって、50キロ、100キロでも大きな被害になるということ、故郷がなくなるということです。

玄海原発から100キロの北九州市も、偏西風の風下ですから、事故の場合の危険について、認識する必要があります。何よりも、再稼働をさせてはならないと、今回の視察「福島の現実」を見て、決意を新たにしました。

南相馬市の様子

南相馬では、京都から支援に入って、そのまま南相馬のボランティアセンターで生活しながら、現地支援を続けている宮前利明さんの案内で視察しました。南相馬は、「避難指示解除準備区域」で大規模に除染作業が行われていましたが、地震・津波・原発放射能による3重苦の町であることに変わりはありません。

電柱の倍の高さの津波が押し寄せたという海岸近くの田んぼや家は、跡形もありません。近くに見える小高い山に逃げたけれど、それでも押し流されたということで、津波の規模の大きさを見せつけられた思いです。ウインドサーフィンの世界大会が行われたという美しい海岸にも、除染の黒い袋が並びます。

南相馬市の様子
南相馬の様子
南相馬市の様子

小高(おだか)地区というところは、浪江と接する場所です。そこに、東北電力の原発予定地だったところがあるというので行ってみました。赤白の鉄塔がそびえ、地域を見下ろしています。「あそこが原子炉の予定地だったんです。43年間、小高地区の住民が反対し続け、土地を売らずにがんばった結果、事故後、東北電力は建設をあきらめたのです。」 もし、ここに、原発がつくられていたら、どんな悲劇が起こっていたでしょう。住民の抵抗に拍手です。しかし、その方々も、家は残っていますが、全員避難です。

南相馬の様子
南相馬の様子

小高駅の駐輪場には、たくさんの自転車が置かれたままになっています。高校生が朝通学してきて、そのまま避難したため、置きっぱなしになったものです。駅の周辺の花壇には、美しい花々が咲いていましたが、近所の方が花を植えて手入れをしているとのこと。町の復活を思う気持ちが伝わってきました。この地区の小高中学校の生徒が避難先での昨年の卒業式に、犠牲になった友達、全国に散って行った仲間を思って作った「群青」という合唱曲が全国の学校に広がり、感動を呼んでいます。

このたたかいの歴史ある小高地区は、共産党の支持も高いところだと聞き、納得するとともに、その無念を思いました。

浪江町の様子

帰還困難区域に入るには許可証が必要です。2回も身分証明書を提示して、ゲートをくぐり、浪江町に入りました。浪江町役場は、この4月から再開され、職員のみなさんは、避難先から通ってこられています。若い職員の方から、説明を聞きました。

全町民が避難対象者で、14640人(69.4%)が県内、6442人(30.6%)が県外に避難しています。3月11日21時33分政府は福島第一原発から半径3キロ圏内の住民に避難指示、3キロから10キロ圏内の住民に屋内退避を指示していますが、浪江町はこの指示について未確認であり、報道により事実確認したということです。12日5時44分に避難指示が半径3キロから10キロに拡大されたことも報道によって確認。15時36分福島第一原発1号機爆発、18時25分内閣総理大臣が避難指示を半径20キロ圏内に拡大したが、この時も町は指示未確認で報道により確認してたということで、政府に対する強い不信が説明資料にも表れています。町民は、原発から29キロ地点の津島支所に避難しましたが、この時の風向きが津島方面であったため、町民の多くが無用の被爆をさせられたことを本当に悔しそうに話されました。

説明後、海岸近くの浪江の町へ。放射線量を測定するガイガーカウンターも持って、移動となりました。車の中にいても、場所によっては、放射線量が、1.0マイクロシーベルト以上に急上昇します。

浪江町の様子
浪江町の様子

ひっくり返った船、ひしゃげた車、丸まったガードレール、田畑の中に点在する「時間が止まった」光景に息が詰まる思いでした。

家々はほとんど流され、請戸小学校がかろうじて姿をとどめていました。請戸小の子どもたちは、教師の判断で、地震後すぐに内陸部に向けて、山を越えてにげたそうで、全員無事だったということです。人気のない浪江の町できいたその事実に、胸があつくなりました。

浪江町の様子

3月12日の新聞が積み上げられたままの福島民報新聞販売店、街灯が落ちたままの浪江駅前、流された橋、折れ曲がった電柱、津波が及ばなかった家は、今はネズミの巣になっているそうです。

請戸小学校
請戸小学校
請戸小学校
請戸小学校
請戸小学校

請戸小学校からは、福島第一原発を見ることができます。1階部分は、津波に破壊され、体育館は卒業式の準備がされた状態で、床が落ちめくれていました。2階部分は教室の原型をとどめていました。時計の針は3時40分、津波が襲った時刻で止まっています。後ろの黒板には、後に先生が書かれたのでしょう、「くじけるな。つらいですね。前を向いて生きていくのですよ」とあり、涙を誘いました。前の黒板にも、災害救助の自衛隊員がメッセージを残していました。

請戸小学校
請戸小学校

海のすぐそばの学校、原発の近くの学校の子どもたちが、全員助かったのは奇跡ではないでしょうか。案内をしてくださった町職員は、海のそばに家があったということですが、跡形もなくなっていました。しかし、2人の子どもさんはを請戸小に通わせていて、2人とも無事だったそうです。

請戸小学校

子どもたちの声が響いていたであろう、その場所が、一瞬にして廃墟と化してしまい、その後の立ち入りもできなくなってしまったのです。

消防団の人たちが、うめき声が聞こえるといいながら、救助に入れなかった、あきらめざるをえなかった町。原発事故のすさまじさに背筋が凍る思いでした。

-->